(´・ω・`)ショボンヌの独白

ショボンヌ党員No.10 の独白

ショボンヌ老子:第58章(順化)

政治がぼや〜っとした感じになると、民衆は素朴でマターリします。政治が細かく行われると、民衆は腹を探り合ったり化かし合ったりしてあわただしくなります。
災いあるところシヤワセあり、シヤワセあるところ災いありです。災いとシヤワセの境い目なんてあってないようなもんなんですよ。絶対的なタダシサなんてありません。タダシイとされることでも、それは同時に奇妙なものにもなります。善とされるものも、それは同時に怪しいものにもなります。人が迷うのは今に始まったことじゃないんです。
なので聖人さんは、自分がタダシクてもそれを人に無理強いしませんし、自分が清廉でもそうじゃない人を傷つけませんし、自分がまっすぐでも人を無理矢理まっすぐにしようとしませんし、自分が光っていても人を照らそうとはしないもんです。
(蛇足)
人を感化しない態度でいることが、かえって人を感化させる結果となるんですね。ただし人を感化させるのが目的じゃなくて、たまたま結果がそうなるだけということに注意どす。ここを間違えると「老子はずる賢い老獪な処世術である」みたいなヤな感じの解釈になっちゃいます。確かに処世術として使うこともできますが、それを目的に書かれたものではないんだと思うですよ。
(とはいえ、老子も万物の一つ。いろんな側面があって当然とも言えますかね。)