(´・ω・`)ショボンヌの独白

ショボンヌ党員No.10 の独白

ショボンヌ老子:第14章(賛玄)

見ようとしても見えないものを「夷」と言います。聴こうとしても聞こえないものを「希」と言います。触ろうとしても触れないものを「微」と言います。
この三つはそれぞれ解明できないもわ〜っとしたものですが、「道」っていうのはこれらが一つになって更にもわもわ〜っとしたものなんです。
上が明るいわけでもなく下が暗いわけでもなく・・・ぼやーっとしてて名前の付けようもなく・・・「無」に帰った物と言いますか・・・状態のない状態、形のない形とでも言いますか・・・とにかくもわ〜っとしたものとしか言いようがありません。前から見ても顔も見えず・・・後から見ても後姿も見えず・・・
古くからの「道」に則して今の物事をコントロールすれば、その根源を知ることができます。「道紀*1」ってやつですね。



老子の「道」を根源とする世界観が、今の量子力学と酷似してるとよく言われます。私には難しいことはよく分からないんですが、「素粒子は粒子というより波っぽい」とか「物質の存在は観察する人がいて初めて確定する」とか「存在っていうのは、特定の空間・特定の時間に素粒子が存在する確立でしか表せない」とか「素粒子は突然現れて突然消滅する」とか。(よく理解してないので正確な表現ではないと思います。ご了承を。)
要するに今まで私たちが確固たる事実としてゆるぎないことと思ってた「モノの存在」っていうのが、実はわりとぼや〜っとした曖昧なものだったということでしょうか。
老子で言うもわ〜っとした「道」とその働きによって万物が産まれたり元に戻ったりするっていう世界観。仏教で言う「色即是空、空即是色」。このあたりが量子力学と似てるんでしょうねえ。
「科学者が山を登ったら、頂上には神学者がいた。」という話を地でいってるわけですかね。
そのきっかけとなった本です。(いわゆるトンデモ本として扱われたりすることもありますが、それなりに興味深くおもしろい本かと。)
タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる

タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる

*1:どうき=根源としての「道」