(´・ω・`)ショボンヌの独白

ショボンヌ党員No.10 の独白

ショボンヌ老子:第38章(諭徳)

ほんとの徳っていうのは徳を徳だと思わないもので、だからこそ徳があります。これを上徳と言います。そこらへんに転がってるような徳というのは、徳をなくさないようにがんばってるような感じなので、そんなんじゃ徳があるとは言えません。これを下徳と言います。
上徳:無為、つまりあえて何かをやるわけではないのに、やるべきことを自然にやっていて、やることやっても「やったぜ!」とか思いません。
下徳:やることやって「やったぜ!」とか言っちゃいます。
上仁:やることやっても「やったぜ!」とか思いません。
上義:やることやって「やったぜ!」とか言っちゃいます。
上礼:やることやってるのに、認めてもらえないと人のヒジを引っ張って「な?な?オレやったよな?すげーよな?」とかやっちゃいます。
つまり、「道」を失って徳になり、徳を失って仁になり、仁を失って義になり、義を失って礼になるわけです。
礼なんてものは、忠信が薄くなって必要になるもので混乱のモトになります。人の前に立つようないわゆるエライ人っていうのは、「道」の先っぽに咲くちょっとした花のようなもので、華やかではありますが悪くすりゃ愚かさのモトにもなってしまいます。
なので、ほんとに立派な人は、「薄さ」じゃなく「厚さ」を、「華やかさ」じゃなく「実質的なこと」を大切にします。仁義礼智信とかじゃなく「道」とともにあります。
(蛇足)
仁義礼智信が悪いわけではないですよ。これらは「道」をよく行う人には自然に備わるものなんだと思います。ただ、「道」をわきまえてない人が、表面的に形式的にそれを真似ても意味ないじゃん、ってことなんでしょうね。